こんにちわ、ルオです。まだ知らない世界を知るとワクワクすることはありませんか?「ルオの美術紀行(ART Trip)」では、美術の世界の扉を開いてみたいと思います。ジャンルは日本や海外の作品、美術館、文化財の継承、物の見方などご紹介します。シリーズにしていきますので興味がある方は是非読んでくださいね!
2回目「スペイン人の画家ジュアン・ミロと日本 作品『絵画』(1966年)」
目次
1 スペイン人の画家ジュアン・ミロはどんな人?
2 親日家のミロの軌跡
3 「スペイン人の画家ジュアン・ミロと日本」のまとめ
1 スペイン人の画家ミロはどんな人?
20世紀のスペインの芸術家、ジュアン・ミロは1893年4月20日にカタルーニャ地方の中心都市、バルセロナで生まれました。
スペインと言えばパブロ・ピカソを思い浮かべる方も多いかもしれません。ミロとピカソは同時代を過ごしています。ピカソが12歳年上です。母親同士が仲が良かったそうですよ!
ミロは本当は画家になりたかったのですが、父の希望もあり大手日用品メーカーの経理として働き始めます。ミロが17歳の時です。
しかし、仕事に馴染めず神経を病み、重いチフスにかかってしまいます。療養のため父の別荘があったカタルーニャのモンロッチという村に滞在します。
モンロッチはバルセロナから100㎞離れた自然豊かな町です。自然はミロにとって発想力の源で良い先生でもありました。
後にミロは何度もモンロッチを訪ねることになります。
息子の様子を見ていた父は画家になることを認めました。
ミロが19歳の時、フランセスク・ガリ美術学校で3年間油絵を習いました。
しかしミロにはコンプレックスがありました。それは何でしょうか?
色彩感覚は抜群に良いのですが、デッサンが苦手だったと言われています。
そこで当時の先生がちょっと変わった方法を提案しました。それは目隠をして見るのではなく触るという方法です。
ミロにとってこの方法は有効でした!見たままを正確に描くことから解放されたミロは独自の感覚を発揮することが出来るようになりました。
『アンリク・クリストフル・リカルの肖像』は画家で日本美術のコレクターでもあった友人リカルを描いたものです。
肖像の背景にある浮世絵は、実物を切ってコラージュしているのですよ!
ミロは素材に対してとても敏感です。キャンバスではなくメゾナイトという板を使ったり、穴を開けたり、絵具を盛り上げたり、削ったり、へこませたり。
コラージュ、アルミ箔を貼り付け、人物を麻ひもでくくる作品もあります。日本のたわしを使って作品を仕上げたこともあります。
触るという感覚はミロにとって可能性を広げたのではないでしょうか。
27歳(1920年)のミロはパリに行きました。
1910年代後半のパリの画壇は、フォービスムとキュビスムといった革新的な芸術運動が生まれ、ダダイズムやシュルレアリスムへと移行していた時期です。
ミロも新たな芸術の在り方を模索していました。この頃からモンロッチとパリを往復しながら制作するようになります。
30代後半からはバルセロナ、パリ、マリョルカ島(スペイン領)のパルマ・デ・マヨルカにアトリエを持ち制作します。
47歳頃(1940年頃)、日本の墨と和紙を用いての制作が始まりました。描線の太さや濃淡の実験を繰り返していました。
陶器や彫刻の制作も始めました。
63歳(1956年)パルマに大規模なアトリエ構えます。それに伴い、作品の規模も大きくなっていきました。
パルマは世界最大級のバラ窓を持つゴシック建築のパルマ大聖堂があります。
ミロ73歳(1966年)の時日本に初来日します。ミロはインタビューで「長い間、日本を夢みていた」と語ります。
そして3年後1969年には日本万国博覧会(大阪万博)に参加するため再び日本を訪れました。
会場になったガス館に陶板壁画『無垢の笑い』を制作しました。
ミロは1983年12月25日、アトリエのあるパルマ・デ・マヨルカで老衰のため90歳で死去しました。
2 親日家のミロの軌跡
ミロは日本がとても好きでした。アトリエには日本の民芸品、たわし、日本の筆など日本に関係する物がたくさんありました。
こけしなど、普通に手に取れる物の美しさにひかれました。ミロの蔵書にはカタルーニャ語で書かれた「日本昔話」もあります。「浦島太郎」や「猿蟹合戦」を読んだのですね!
ミロの生家の近くにも日本美術の輸入販売店がありました。こうした環境で育ったミロは、早くから日本文化へあこがれや興味を示しました。
なぜこのような環境だったのでしょうか?
1888年に開かれた万国博覧会による影響です!(ミロは1893年生まれ)。ヨーロッパはジャポニスム・ブームでした。
ミロが初めて個展を開いたダルマウ画廊でも、日本美術の展覧会がたびたび開催されていたほど日本は斬新で憧れの国でした。
ミロのの創作活動には日本文化の影響があったことは想像できますね!
日本でもミロは知られていました。
なぜなら詩人で美術評論家の瀧口修造氏によって書かれた『ミロ(西洋美術文庫48)』で紹介されていたからです。
スペインは現世紀の絵画にひときは輝く三つの星を相次いで送っている。言うまでもなく、ピカソとミロとダリである。ミロはピカソやダリよりもスペイン的なものの魅力をはるかに率直に現わしているのである」
『ミロ(西洋美術文庫48)』より
ミロはその本の存在を知っていたのでしょうか?
もちろん、知ってました!憧れの日本で自分の本が出されていることに感激しました。しかも内容がきちんと書いてあると知って嬉しかったそうです。
本が出版され26年後にミロが日本に来日しました。ミロと滝口氏は初めて会いました。
3年後の大阪万国博覧会の製作しているミロの横には瀧口氏の姿がありました。友情を深めていったのです。
『ミロと星とともに』(1978年平凡社)では、滝口氏の詩にミロが絵を描きました。二人のコラボレーションが実現したのです!
素敵なお話ですね!
人との出会いはタイミングも大事です。実際に会うことが出来、気持ちが通じ合い、理解を深め、本まで出版できる状況はなかなか出来ないことではないでしょうか。
幸福な出会いですね!
ところで、ミロは憧れの日本に来日した時何を見たのでしょうか?気になりませんか(笑)。
主に5つの都市を訪ねました。東京、京都、奈良、名古屋、鎌倉です。
2週間の滞在期間中に、相撲、歌舞伎、高台寺(京都)、ミロがリクエストした龍安寺(京都)、桂離宮(京都)、東大時(奈良)、奈良国立博物館(奈良)、日本民藝館(東京)、五島美術館(東京)、国立近代美術館(東京)、東京国立博物館(東京)を見ました。
人とのコミュニケーションも大事にしました。名古屋では陶芸家を訪ね、書道家との交歓会では、ライブ感を体感しました。
帰国後に描いた作品が今回のお勧めの一枚『絵画』(1966年)です。
ミロ独特の明るい色彩や緻密な構成は排除され、墨を感じさせるような一枚の絵に仕上がっています。
墨は使われていません。素材は油彩・アクリル・木炭・キャンバスです。
日本での書家との交流を経て感じ取った、滲みや撥ね、濃淡、かすれ、そして絵具の滴りなどを利用したライブ感のある作品です。
日本を訪問したからこそ、描けた作品なのではないでしょうか。
3 「スペイン人の画家ジュアン・ミロと日本」のまとめ
「ルオの美術紀行(ART Trip)」では、日本や海外の作品、美術館、文化財の継承、物の見方などご紹介します。
第2回目は「スペイン人の画家ジュアン・ミロと日本 作品『絵画』(1966年)」です。
ジュアン・ミロ(1893-1983)は20世紀を代表するスペインの画家です。
ミロは若い頃から日本に憧れ、日本文化の知識がありました。日本でも、批評家の瀧口修造氏が出版した本を通してミロは知られていました。
作品『絵画』(1966年)はミロが日本を訪問した後に描かれたライブ感のある作品です。
ミロの生きた時代は、スペイン内戦と第二次世界大戦という決して生きやすい時代ではありませんでした。
そんな中でも制作を続けながら90歳まで生きました。
独自の表現を追い求めたミロの作品を見る機会があればご覧くださいね!
美術の世界の扉を開いてみると楽しみが増えると思います。「ルオの美術紀行(ART Trip)」はシリーズにしていきますので興味がある方は是非読んでくださいね!
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